気がつけば、ここはメキシコだった

メキシコ在住ライター、小さな食堂『EN ASIAN FOOD』のおばちゃん、All About メキシコガイド 長屋美保のブログ

誰のための「べき」?

現在発売中のラティーナ2014年4月号の海外ニュース・メキシコで、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥのアカデミー授賞式のメキシコ政府批判発言と、映画『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』について書かせていただきました。


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前作の『BIUTIFUL 』に続き、すごく好きな映画です。メキシコや米国移民社会へのオマージュだと感じました。詳しくはラティーナの記事をご覧ください!もうすぐ日本公開されるようですね。

 

さて、映画『バードマン~』は、自分が人にどう思われているのかを気にする男の話であり、そんな束縛から、どのように自分を解放できるのかという話しでもあります。

日本の社会でも、人にどのように思われるのかを気にする人が多い気がします。きっと、未だに「型に当てはめたがる層」がいるからでしょう。自分の感覚や価値観では理解できないことをしている人間を、何らかの型に当てはめて納得する人々です。

それを象徴するのが、最近話題の「女性を応援するつもりが女性にプレッシャーを与えている」といわれるルミネのCM。お仕着せが当たり前の体制が、未だに存在し、こういったCMを作らせていることに気持ちが悪くなりました。そのいっぽうで、このCMに対して、日本で「おかしい」という抗議の声が、たくさんあがったことに安心しました。

 

この「お仕着せ」で、ふと思い出したのですが、私が最近文章を書くときに意識的にしているのが、「自分の価値観を他人に押しつけるような言葉や、簡単に枠にはめる言葉を使わない」ことです。

たとえば、「べき」という言葉。「大人の女性だったら持っているべきパンプス」みたいに書かれると、とてもモヤモヤするんですよね。

「大人(ここでは、30代以降を指していると思われますが)はこういう格好しなきゃいけないとか、こういう態度を見せなきゃいけない」という一方的な決めつけ。

それと、「女子」とか「男子」って言葉にもモヤモヤ。「女子」とか「男子」で括ろうとするのはね、個人主義を抹殺するための罠ですよ(白目)!……というのは大げさだとしても、文章でも日常の会話でも使いませんね。

「女々しい(めめしい)」という言葉が超マチズモの現れであるように、「男らしく」、「女らしく」、(「らしい」ってそもそも何?誰が決めてるの?)、「女を忘れない」、「女を忘れている」というのも、気持ち悪いですね。人間が男か女かに生まれたのはたまたまそうなのであって、男だからこうしないとダメだとか、女だからこうしないと~、っていうステレオタイプは捨てるべきです(あ!ヤバい。「べき」って使っちゃった!!)。

ようは、どんな服着ようが、どんな髪型や化粧にしようが、どんな振る舞いをしようが、どんな趣味を持とうが、誰と付き合おうが、どんなもの喰おうがいいわけで、自分が欲するものを求めればエエじゃないか!他人の目を気にする必要などありません。

そして、人からどのように見られるのかを気にしすぎる人は、本当のところ、自分が何をしたいのか、何が好きなのかわからない人で、いつまでたっても、幸せだと感じることはないのだろうなと思います。

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