気がつけば、ここはメキシコだった

メキシコ在住ライター、小さな食堂『EN ASIAN FOOD』のおばちゃん、All About メキシコガイド 長屋美保のブログ

映画『ROMA』のモヤモヤ

2019年アカデミー賞で、監督、撮影、外国語映画の部門を3受賞したメキシコの映画『ROMA(ローマ)』について。
 
画も舞台もすべて完璧。主演女優のヤリッツアの国際的な評価も嬉しく思う。
でも、あの映画が好きかどうか問われたら、好きな映画じゃないのだ。
 
メキシコの友人、知人にこの意見を言うと、「君にとってはゆっくりしたリズムが退屈だったんだろう」とか、「メキシコを知らないとこの映画に感情移入できないのだろう」とか言われたんだが、(未だにメキシコに慣れていない部分もあるとはいえ、移住して13年がたっている)そうじゃないんだな。メキシコシティを愛情を持って描いた点では、素晴らしいと思っている。
でも、好きになれないというと「君はわかってないみたいな」態度を取られることが結構あるんで、心の底で納得できなかった。
その理由について、ずっと考えていたのだが、このEL PAISのオスカーについての記事を読んで、ちょっとはっきりした。

 

elpais.com


この記事の筆者パブロ・ヒメネス・デ・サンドバル、は「人種差別や格差に焦点をあてているスパイク・リーの『BlacKkKlansman(ブラック・クランズマン)』やアルフォンソ・クアロンの『ローマ』がオスカーで受賞もしたけど、最も重要とされる作品賞は結局白人から見たレイシズム映画『Green Book 』であり、リーやクアロンに対してハリウッド的差別があった」と見ている。

ただ、私にとってクアロンの『ローマ』が、メキシコシティの愛情が伝わり、好感は持てる部分があれど、心底好きになれないのは、「先住民女性の視点から見たメキシコの中流階級一家を描いている」というよりも、その逆で「シネフィル、インテリ映画業界(中流層以上)がメキシコの先住民家政婦を【使っている】中流家族との関係を、あまりに美しく描いてる」のが引っかかっているから。主人公の女性がオブジェやオマージュのシンボルとしか見れなかったのだ。

メキシコに長く住んでいても、まったく馴染まないのが、社会のなかで家政婦を当たり前のように雇用する(というよりも【使う】)システム。クアロンはアカデミー賞のスピーチでも家政婦たちの権利を訴えていたが、まるでこの映画を作ったから罪を償わさせてくれとでも言ってるかのように見えた(クアロンが、現在は実生活で掃除や洗濯や洗い物を自分でやってたら話は別だけど)。

日本社会で生まれ育った私にとって、お手伝いとか家政婦の概念が理解できぬ一方で、何でも自分で完璧にやんなきゃいけない状況になってる日本社会のお母さんたちは本当に大変だろうから、だれかに気軽に家事を頼めるのは大事なこととも思う。

雇用する側とされる側に、人間としての対等な関係がないと問題があるわけだけど。
 
でも、ここまでメキシコに住む皆が自国で作られた映画について語るというのは、近年なかったことだろう。観る者を居心地悪くする映画には、それなりの意味がある。

モヤモヤするのも必要なことだからね。

http://mihonagaya.com/